漂う骨



 扉を開けるとふわりと風が頬を掠めた。
「亜子。来てるの?」
「うんー。おかえり、佐緒」
 廊下の奥から響いてきたのは相変わらずのんきな亜子の声で、けれど私は、やけに慌てて履いていたミュールを
脱ぎ捨てる。今日はまだ、彼女がここに来るはずじゃなかったから。いつもみたいに居間の中央でクッションを抱いて
弛緩しきっている亜子の姿は見えるのに、その隣に行くまでの数秒がひどくもどかしい。こんなものを履いていく必要
なんてなかったのに。肩に落ちかかる緩く巻いた髪も、淡い色合いの上品なワンピースも。今朝念入りに整えた身支
度だったが、今はただ、体の動きを邪魔されて腹立たしいだけだった。
「今日は来ないと思ってたのに」
 のに、なんて言うつもりじゃなかったのに、と口にした途端後悔している。動揺している、みっともないほどには、とい
う自覚。右側にいるはずの亜子の気配が薄すぎて不安なのか。それともこれから始まる通過儀礼を恐れているのか。
 あるいは始まりの期待に溺れている?
――手早く済ませてしまおう。亜子が気づく前に。
軽く息を吸い込んでから口を開く。
「会ってきたのね」
「うん。急にね。日にちも聞いてきたよ」
「いつ?」
「来月の五日。まあ生き物相手のことですから? 多少は前後するかもしれないけど」
 意外に短い余命だよね、と続ける声が笑っていることに気づいて背筋が寒くなった。こんなときにまで唯一執着した
ものを奪われるときにまで笑うのか。
 ためらいがちに向けた視線が、こちらを見ていた亜子のそれと正面から絡み合う。
 不意に笑みを口元から消して亜子が言った。
「それまで、置いてください」
「――どうぞ。いつまででも」
「ありがとう」
 表情を崩し微笑んだ亜子は、前方に戻した頭を私の肩にもたせかけた。ふ、と傍らの空気が動く。帰宅したときに感じ
たものと同じ振動、全てをリセットする効力を持った彼女。
 いっそこのまま私の衣服も皮膚も溶け出して流れ込んでしまえたなら。手に届く重みを支えやすい形に体を動かしながら、
私はそう、夢想した。

  *
「ただいま」
「お帰りなさいませお嬢様。お食事になさいますかお風呂になさいますか、それとも」
「あのねえ、亜子」
「ふふ。可愛いでしょ? こういうの好きでしょ」
毎晩私を出迎えるようになった亜子は、どこで買ってくるのか毎日仮装、というかコスプレをしている。今日は言わずと知
れたメイド服(ロリータ風味)、対して昨日は千切れないかと心配するくらい深いスリットの入ったチャイナドレス。傾向を
先読みすれば明日はミニスカポリスだろうか。亜子は取り立てて美人ではないけれどバランスの取れた顔立ちで、何より
個性がないので化粧と衣装を変えるだけで別人だった。
「着せ替え人形みたい」
「そうねー。私何でも似合うからねー」
 冗談半分、苛立ち半分で投げた台詞は、揺らぐことない柔らかな微笑に包まれて落ちる。亜子との共同生活は平穏だ
ったが、絶え間なく与えられる肯定の微笑は、完璧であるがゆえに私の焦燥を募らせた。余命が短いと例えたのは亜子自
身だが、それが大仰にならないほどの、亜子の執着を知っていた。
 ――別の場所に帰る決して手に入らない男でも、亜子が選んだならそれで良いと、私は思っていたのだ。投げ遣りでも
諦念でもなく、徹底した無関心ゆえに他者を肯定し続ける亜子に入り込む男の存在は、たしかに私の逃げ道でもあったの
だから。その先など考えてもみなかった。男を呼び戻す鎖が増える可能性や、その鎖が何の罪もない男の血族である可能
性や、相手を乱すくらいなら命を絶ちかねない亜子の異形のプライドや。
「どうしたの、佐緒? 凍り付いちゃって」
「どうしてそんなに覆い隠すの?」
 軽口に紛らわせるつもりだったが、反芻する間もなく言葉が滑り出た。正面から覗き込む亜子の瞳は平らで、光を反射も
吸収もしないほどに薄い。私はこの瞳との対峙に耐えられなかった。隣に居ることを選んだのは、切望と同時に傷つくこと
を恐れたからだ。たぶん。
 作り物の視線を与えられる猛毒に気づくまでにはもっと時間がかかったけれど。
「……なにを?」
「何って、えっと、化粧とか衣装とか毎日変装してるし、それに……」
 あくまで無邪気な発声と、確実に冷えた瞳から失敗を悟る。誤魔化そうと急いで紡いだ言葉はあからさまに宙に浮いた
が、絶句する私を眺めていた亜子は、呆れたようにやがて笑った。
「――傍に行くわけにはいかない」
笑いながら髪をかきあげ、露出した耳に飾られた真珠のピアスに触れて亜子は続ける。久しぶりに聞く低い声。私から全
てを薙ぎ払う緩やかな響き。
「佐緒」
「――なに」
「『名は体を現す』ってほんとうだよね。私は人じゃなくて、「亜子」――人に準じたモノなの。覆い隠す中身なんてない。
皮がなくなれば流れて消えるだけ。私は外見そのままなの、服や髪が私の骨なの。このピアスは」
 男が亜子に唯一贈ったモノは。
「それを束ねていただけなの。仮縫いのピンみたいに。一時的に。だから」
「……仕方がないって言うの?」
「自然だって言うのよ」
 肯定を微笑む亜子の声はもう元に戻っていて。そう、と私は馬鹿みたいに頷くことしかできなかった。

    *
 映画館を出ると、西の空は薄紅に染まっていた。
「佐緒。食事でもしてく?」
「うん。そうね」
 肩を抱く男の体温を疎ましいとは思わなかったが、あまりに純度の高い赤に胸騒ぎを覚えて、私は生返事しながらバッグの
中の携帯を探った。全国で何十万人が涙したとかいう純愛映画を観るあいだ、泣けないのは判っていたが律儀に音だけは
消していたのだ。本来なら男といるときも携帯を開くことはないのだが、桃に近いほど淡く、けれど確かに血の色を透かす紅
は彼女を思い起こさせるから。
 『非通知 0秒間』と表示された画面。カウントされ得ないほどの僅かな哀願。
「ごめん、帰るわ」
「佐緒? ちょっと、」
「帰る」
 もしかしたら違うかもしれない、まだ三日もあるのだから、男に会いに行ったかもしれない、息を切らした私を笑うかもしれない。
 それでよかった。リセット。人を停止する彼女を解き流すのが私であればよかった。



 ――亜子は居た。いつもみたいに居間の中央で弛緩しきって、あの日私が着ていたワンピースを身につけて。緩やかに
巻いた髪をもてあまして。
 呆気にとられている私を見上げて、亜子はにこりと微笑んだ。
「おかえり、佐緒」
「……何してるの」
「何って。休憩。佐緒、走ってきたの? すごい息切れてるし。ていうか気づくと思わなかった。愛の力ですか?」
「――でも遅れたけど。映画観てた」
「いいのよ。何でも終わりまで見なくちゃ。私も見てきたんだ、赤ちゃん。かわいかった。ちゃんと変装していったから大丈夫よー。
 得意だもの。佐緒の服は勝手に借りちゃったけど」
 少しだけ迷って隣に座った。これからの展開は予想もつかなかったし、何かを話し始めるときに、向かい合って亜子を問い
詰めたくはなかった。
「亜子」
「なあに?」
「亜子は終わりまで見てきたの? ちゃんと?」
 そして解いてもらったのだろうか。別れを告げる男に。仮縫いの役目を終えて。
「うん、人間の真似も疲れるものねえ。次の仮縫いまでもう少し置いてね……ねえ佐緒」
 ゆっくりと亜子の上体が後ろに倒れていく。床に緩やかな栗色の波が広がり、谷間で真珠のピアスが光る。
「外して」
 異物を抱き込んで輝く真珠。歪んだ経緯が生んだ至高の愛情。
 亜子の指が私の手を捉え導く。私は軽い目眩を堪えながら、純白のかがやきに手を伸ばした。






                        
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