眠い (079: INSOMNIA)



                    
「……眠いなあ」
 今朝十三度目の欠伸を噛み殺して、僕は誰に言うでもなしに呟いた。とにかく眠い。目覚まし
時計に合わせてガムテープを剥がすみたいに起した体は、今は学校の机と恋愛中であるらしく、
やたらと前に傾きたがっている。
「何だよ、珍しいな」
 前の席の佐藤がにやりと笑って振り向いた。居眠り常習犯の奴と違って僕はとても行儀が良い。
めったにないチャンスを活用しようとでも思っているのだろう、嬉しそうな目つきで僕を見ている。
「そうだね。でも本当に眠いんだ。体が溶けてバターになってしまいそうなくらい」
「へっ。溶けるじゃなくて解けるだろう?」
「そんな高度なギャグを言わないでよ。何で口頭で漢字変換できるのさ」
 軽口を叩いていても眠い。ともすれば内側に向きそうになる意識を外界に向けようと、僕はクラ
スを見渡した。
「……あれ、榎本さんは?」
 クラスの窓側前から二番目、いつも陽だまりの中で静かに授業を受けている榎本さんの席が空
いていた。授業開始時間は目前だ、あんなに真面目な彼女が遅刻なんてするだろうか。
「榎本なら冬眠したぜ」
 佐藤がいっそうにやにや笑う。悪い奴じゃないけど品がないんだよな、と十四回目の欠伸をしな
がら僕は思う。
「ふうん」
「失恋だよお決まりの。何でも隣のクラスの女たらし、藤原だっけ? あいつに引っかかってたらしい。
藤原もうまいこと隠れて遊んでたんだけどな、昨日とうとう現場を目撃されたわけだ。凄かったらしい
ぜ? あの大人しい榎本が泣くわ喚くわ大騒ぎ」
「人は見かけによらないんだよ」
「違う、大人しい女ほど怖いんだ。ハジメテノシツレンだから一ヶ月は起きないだろうと俺は予想してい
る。ショックか? お前榎本みたいなの好きだろう?」
「別に」
 僕は平静を装って言う。本当は割に好みだったんだけど。藤原かよ、みたいな。女の子って判らない。
 チャイムが鳴った。先生が教室に入って試験問題を配り始める。今日は実力テストの日なのだ。佐藤
が慌てて前を向きながら囁いた。
「お前の、これが原因じゃないか?」
「僕は普段から勉強してる」
 君と違ってね的ニュアンスを滲ませて言い放つと、佐藤の舌打ちが聞こえた。八つ当たりかよ、と反撃
される。これだから勘の鋭い奴は嫌いだ。

☆★☆
 
 眠くて眠くて仕方なかったがテストは出来た。普段から勉強してると言ったのは嘘じゃないし、はっきり
言って自慢だが記憶力も良い。授業さえ聞いていれば問題ないのだ。
「テストどうだった?」
「できたよ」
 また佐藤が近寄ってきたので適当に答えた。一応歩く速度は合わせる。僕もまあ、佐藤のことは嫌いじ
ゃない。
「ふうん……、じゃあ何で眠いんだ?」
「さあ。僕も不思議なんだけどね」
 校門をくぐって立ち止まった。警官がいる。ふっ、と空気が薄くなる。
「――君だね?」
 名前を呼ばれると同時に強烈な睡魔が僕を襲う。ああこれだ、と妙に落ち着いた調子で思った。
 そもそも藤原を使ったのが失敗だった。カモフラージュにはもっと地味な男の方が向いていると僕が言っ
たのに、あの女ときたら。派手な女関係がどれだけ洗われやすいか。人の私生活までいちいち詮索して。
ちょっと突き飛ばしたら落ちるし。全く手間のかかる。
 いかん冬眠する気だと警官が叫んだようだった。何だ何だと佐藤が騒ぐ最後までうるさい奴だ。事後処
理は完璧だったのになあ噂を女に流したり埋めたりそうか今日の眠気は僕の優秀な記憶力が感知した
虫の知らせだったのかも
 起きたら次は佐藤にしよう、そう朦朧と考えながら、僕は自分を包む白い糸に身を委ねた。