蝸牛あるいは
          

         
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  ――ああ、いらっしゃい。久しぶりだね。雨には濡れなかった? それは良かった。まあ座って、お茶でも淹れよう。
……そう急がなくても良いじゃないか、雨は暫く止みそうにないし、君お勧めの何処やらだって夕方に店仕舞いする訳じゃ
あるまい。ここで我らが久闊を叙し、積もる話をしてからでも遅くはないさ。――うん、そうなんだ、実は面白い話がある。君
の気に入るかは判らないけどね、ひとつ茶菓子代わりに話してみようか。……こんな霧雨の日の話だ……。

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  僕はいつもの裏通りを歩いていた。ときどき散歩に行くあの道だよ。表通りと違って車も少ないし、住宅街みたいなもの
だからあちこちに生垣があって、雨の日に花びらが露を受ける様子なんて、何度見ても趣がある。僕は偏頭痛持ちで雨は
駄目なはずなんだけど雨の中で咲く花は好きなんだね、だから興が乗ると鎮痛薬を流し込んでから歩きに出たりする。その
日もそうだった。
 用のない独り歩きは良いものだよ。何ていうか、時間が止まったみたいなのんびりした気分になれる。道沿いの生垣や、
足元に転がっている小石なんかをじっくり眺めながら歩くんだ。せっかちな君は知らないだろうけど、雨に濡れた小石や
雑草も綺麗なもんだよ。なに、同意は求めないさ、え、脇道に逸れてる? だからせっかちだって言うんだ。……判ったよ、
続けよう。
 とにかく、そうやって周りを眺めながら歩いていて、奇妙なものを見つけたんだ。かたつむりの殻なんだけどね、ひどく小さ
くて、虹色に光ってて、まあ普通じゃ見かけないね、あれは。かたつむりといえば雨の日に登場するのがお約束だけど、雨
上がりの虹と同じ色っていうのが心憎いじゃないか。僕は暫くそいつを観察してみることにした。普通のかたつむりと何か違
うのか気になったし、何度も言うけど、目的のある散歩じゃないんだからね。
 初めは何も変わったところはなかった。殻はぴくりとも動かなくて、それも不自然といえば不自然だけど、僕が文句を言うこ
とでもない。おおかた奴も偏頭痛持ちだな、なんて思いながら見てたよ。
 そのうち変なことに気づいた。蟻とか団子虫とか、虫たちが殻の周りを通らないんだ。うん、勿論気のせいだと思ったさ。か
たつむりを怖がる蟻なんておかしいじゃないか。もっと大きな虫だって蟻は食料にしている訳だし、偶然に違いないってね。
でも五分か十分経って、やはり殻の周りを通る虫がいないとなると、これはあながち気のせいだとも言い切れない。それに
その頃になっても殻はぴくりとも動かなかった。十分間微動だにしないっていうのは、逆に意志を感じないかい? それで僕
はますます腰を据えた。根競べだね。
 ――何分くらいそこに居たのか、僕もよく判らない。三十分くらいかな。最初は小学生に戻った気分で浮かれていたけれど、
さすがに腰は痛いし、殻は相変わらず動かないし、僕も嫌気が差してきた。でもね、帰りたくなったのはそのせいだけじゃない
んだ。殻をじっと見ているうちに、僕は何だか気味が悪くなってきたのさ。手の平に収まる程度の虹色のそれが、ちっとも綺麗
だと思えなくなってきたんだよ。静止し続ける奴に、僕の方が観察されている気にすらなった。白状するけど、何度か僕の方か
ら目を逸らしたりもした。……おや、笑ったね。まあ普通の精神状態じゃなかったことは認めるよ。だからあれだって僕の錯覚
だったのかもしれない。
 そうだよ。そのとき、僕には蟻が殻の中に引き込まれるのが見えたんだ。アリジゴクの巣穴に落ちるように、ひゅっと。驚いた
ね。カタツムリといえば童謡でお馴染みの鈍い動物だと思っていたし、第一、肉食のカタツムリなんて聞いたこともない。長時間
り込んでいたせいで頭がおかしくなったんじゃないかと思って、じっと目を凝らしたよ。
 向こうにもその気配が伝わったらしい。それまで微動だにしなかった奴が、何やらもぞもぞしてから、移動しようとしてだろう、
ツノを出しかけたんだけど、それが、
 僕達の見慣れた、君がカップを持って笑っている、その、
 ――いや、あれは錯覚だったんだ。あんな小さな指は精緻な人形にだって見たことはないし、ましてやそれが動くとしたら人形
ですら有り得ない。非現実の極みさ、君の言う通りだよ。舌打ちの音が聞こえたのを覚えている。雨音を聞き間違えたのかな?
僕の躰が主を正気に返らせるべく選択した行動だったとも取れるね、現実的な考えだ。次の瞬間には、琥珀色のそれは引っ込
んで、ぬるぬるとして、生きているか死んでいるのかも判らない、表情のないなめくじの頭が代りに突き出していた。そう、僕達の
知っている普通の"カタツムリ"になったわけだよ。
 
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 翌日には殻は影も形も無くなっていた。それから見かけたこともない。
 あれが何だったのかは僕にも判らないよ、未だにね。もしかしたら子供の悪戯かもしれない、釣り糸を付けて転がしておけば簡
単だろう? 或いは鎮痛薬が見せた幻覚だったとも考えられる。うん、あまり医者には言えないような奴も飲んでるからね。嫌だ
な合法だよ、君、人が悪くなったんじゃないか? ――まあ良いや、とにかく僕は見た。話はこれだけ。
  ……雨が止んだね、そろそろ出ようか。君のお勧めが中華の店だと聞いて安心したよ、僕は最近フレンチが苦手でね。理由は
判るだろう? さあ、じゃあ靴を履いてくれ。僕は塩でも用意するから。