『 、』
ヒステリア・シベリアナという病気を知っているかと彼は聞いたのだった。小説で読んだわと私が答えると、
口の端を吊り上げて、君は憧れてるんじゃないのかいと皮肉る。地平線しか見えない荒野を耕し続けたシ
ベリアの農夫が、ある日突然鍬を投げ捨て、太陽の沈む西へ西へと歩き続けて飲まず食わずでやがて死
ぬ。君は素質があるよ、なぜなら君はそう思い込みたがっているから、とにっこり笑って、私達は食事に出
かけた。食べることを嫌いな人間がいるなんて信じられない、とその夜私は思っていた。
***
ベランダから見える四角い空に、鮮やかな輪郭を持った星が一つだけ浮かんでいる。私はビニル袋に差
し入れた手を止めて、あれ、と小さく呟いた。指先に冷たい金平糖の粒が当る。どこまでも甘いこの駄菓子
は、最近私が好んで口にするもので、彼は甘い物なんてと笑うけれど、私が金平糖を好きな理由は甘味な
んかじゃ全然ない。小さな星を思わせる愛らしい形と、転がす舌を痛める微かな棘と、それに何より、糖分
ばかりの純粋さ。人間はひとさじのブドウ糖で一日生きていけるのだと、生物で習ったのは中学だったか高
校だったか。この数日私は金平糖とミルクしか食べていなかった。それも男は知らないだろう。
「あの星」
「うん」
ソファで背を向けている彼は、こちらを振り向きもしないで、ただ曖昧な音を発する。私は次の金平糖を口
に含んで、何もなかったことにした。ソファの上のバッグを掴み、コンビニに行くわと告げて部屋を出る。扉を
開けて、閉めるとき、読書に耽っていた彼が、携帯に手を伸ばしたのを眼の隅でとらえた。
***
溶かし損ねた絵の具みたいな藍色が爪の先から這い上がってくる。私は塀に手をついて歩く、点在する夜
警灯が、正面の星に続いていく錯覚を起こして、このまま歩いていけばいいのだと思う。バッグには金平糖も
ある。疲れたら食べて、眠って、私は神経の焼き切れた農夫ではないから、飲まず食わずで死ぬこともない。
部屋を出て随分経った、と剥き出しに冷えた肘が教える。男の電話も終わっただろう、と頭の芯が即答する。
何も考えたくないのに、躰は勝手だ。男が誰に連絡しようがどうでもよかった。読書に夢中のふりをして私の
居場所を無くすのも、本当に夢中なのは行為自体だという事実にも、私は興味を持つことができない。私がし
たいのは星を見ること、それだけ。都会に珍しいほどの明瞭さが好きだ。好きだ、と思えるものが好きだ。
袋に残っていた金平糖をまとめて噛み砕き、目を閉じた。余分なアルコールに酔うことがあるなら、余分な甘
味にだって酔えるはず。喉を滑り落ちるざらついた感触を確かめながら、今自分は正面の星を食べているのだ
と想像してみる。体が軽い。ヒステリア・シベリアナ? そんな理由は必要ない。何だって切り捨てられる、目を
閉じて咀嚼して息を吐けば、周囲の全てが通過していく。取り込むことを辞めた器に留まれるものなど何もない。
私が進んでいくとするなら、それはあなたと逆の方向、
***
「一途っていう意味?」
「そう」
「誰が?」
「――俺が」
***
バッグに潜んだ携帯が震えた。角の電信柱に着いたら、と私は答え、ともかく星に歩き続ける。煙草を買ってき
てくれと男は言うだろう。理由を必要とする彼、窒息するのが怖くて、真っ直ぐ歩けない気の毒な人。取り込むこ
とを辞めた私は、空白として傍らにいる。
必死に瞬く夜警灯がいとしい。強い光を放つ星は、少しずつ遠景となって東の空へと傾いていく。私は西に沈む
星を夢想しながら、再び目を閉じて大きく息を吸う。
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