◆◇◆
城崎に行きましょうか、と男が言った。
行きましょうか、城崎、と私は応えた。
◆◇◆
夕刻一歩手前の喫茶店の空気は酷く重たい。糸の切れたようになった人間たちが煙を吐き出し、停滞した空気に虹色を添える。
光の屈折で生まれただけの、決して美しくはない色、油汚れを落とす洗剤のようだ、と私は思った。
目の前に座る男を覗き見る。彼にだって糸はあるのだ。
私が見ていないだけ、これが何とかの盲目という奴で――
「ああ、時間、大丈夫ですか」
私の視線に気づいた男が呟いた。
「ええ、全然。私は構わないんですけれど」
意識して半音上げた声で話してみたのだが、煙草のせいだろう、喉が痛くて掠れてしまった。慣れないことはするものじゃない。
「そうですか」
ぼんやりと男が笑う。長い指で目尻をぬぐい、考え深げな表情になった。
「では城崎ですね」
「ええ」
何も考えてないくせに、と可笑しくなって、私も少し笑った。
◆◇◆
眼の前の女が薄く笑んだ。
伏せた顔、前髪で保護された空間から覗き見る眼差しは鋭い。
「城崎といえば蟹ですけど――」
飴玉を数える子供のような口調は、
「――秋ですものね」
こちらの反応ひとつで変わる。
「でも、空いてますよ、秋」
一拍置いて答えた。斜めに傾いだ労わり方は、たぶん自分が可愛いからだ。触れることない余白を残し、周縁ばかりをなぞり合い、
そうしてか細い明日を保つ。
「空いてる方が、良いですからね」
女の睫が揺れた。弄んでいたストローを放して顔を上げる。息をとめ、目を見開く、一連の動作を芝居して、初めて無邪気に息を吐
いた。
「そうですね」
◆◇◆
一組の男女が向い合って座っている。背の高い、人好きしそうな男と、生真面目な学生に似た面差しの小柄な女。交わされる言葉
は少なく、寄せては返す沈黙に身を委ねるようにソファに体を預けている。
女が話し、男が答えた。女は相槌を打ち、口元を緩める。
「人気のないところに行きましょう、なるべく」
唇の端を吊り上げた、左右非対称の表情。細めた瞳を受け、男が煙草を口に運ぶ。
「そうですね、山奥の秘湯とか」
紫の霧の向こうで女が笑う。
「隠れ里って奴ですか」
「そう、昔話に出てくるような」
「旅館の女将さんが翳のある美人で」
「それは推理ドラマでしょう。昔話に出てくるのは猿ですね。それから熊」
「露天で出くわすと楽しそうだわ」
「熊ならそんなこと言えませんよ、風呂上りの宴会が出来ないような災難に遭うから」
「宴会が出来ないのが一番の災難かも」
「確かに」
男は煙を吐きながら女を見た。瞬時に客室で茶を淹れる女を連想する。彼はその情景を見たことがない。
女は緩やかな動きで髪を払い、男を眺める。形良く投げ出された手、それの抱える距離を思った。
数秒の空白。
空気が薄くなった。男も女も、影の戻る時なのだった。
◆◇◆
暮れ方に店を出た。男と居る時の流れは、強まり弱まり、均質ではない。重みを帯びたそれを辿るうちに、日が沈む。
「じゃあ、また」
ビルの背から届く夕陽と、滲み溶け出す男の影。見上げる顔に確かな線を探りながら、私もまた日暮れに溶ける。
「電話しますから」
付け足す人に微笑を返す。耳の奥で、ええ、と囁く甘い声を聞く。
「行きましょうね、城崎」
「行きましょう」
交わらない角度で頷く。拡散する街並みへと、めいめいの帰路を急いだ。
*「文紡」 城崎合宿作品。城崎をテーマにという宿題だったのに城崎行ってない。
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