067.蝉の死骸




 目の前にある掛け時計をゆっくりと毟り取る。時間が消える。ぼたり、と音を立てて何かが落ちたので、
私は時計の梱包を後回しにしてそれを拾い上げた。
 茶色い封筒である。中には女と私の笑っている写真が入っている。
 一通り目を通してベランダから投げ捨てた。ぼたり。私の部屋は川に面しているので、誰かに拾われて
困惑を与えることもないだろう。女が何を思ってそんなものを隠していったのか。知りたいという衝動が一
瞬訪れ、すぐ去った。
 ――ねえ土曜には車を洗ってドラ…ブに行き…しょう
 ――最近どこにも行かな…からつま……ないわ
 ――話を…る時はこちらを……のが礼儀………う?
 ――わた……思…のよ、あな……は……?
 ぼたり、ぼたり。私がガムテープをちぎり取る度に蝉の死んでいく音がする。私は目前にその光景を見る。
謳歌した夏に体中の水分を吸い上げられた蝉の死骸たち。アスファルトを横切っていく様々な靴は彼らの死
に見向きもしない。知っているのだ、どこにも同情する理由のないことを。彼らの体は王族の厳かさで渇いて
いく、その表面を砂が覆い、やがて夜の停止した空気にも同化できる沈着さを獲得していく。
 電灯を消す前に、もう一度だけ全体を見渡した。私は几帳面な性格だから、置き忘れの類はまず有り得ない。
時計を最後まで外さずにおいたのは、時間を確認しながら作業をしたいためだった。引越しの業者がやってくる
のは明朝だが私は今夜ここに泊まる気などなく、都心の高価なホテルに部屋を予約している。スイッチに添えた
指に力を込め、鉄製の扉を押し開ければ、私とこの部屋の縁も終わるのだった。
 光を失った部屋は、それでも夏の夕刻の日差しを残し、戸惑ったような曖昧な明るさで私に対峙している。ぼた
り、ぼたりと全ての装飾を剥がれてしまった壁紙は黄色く霞んで私に女の骨を想像させる。ここに生活はもうない。
代りに根も葉もない幻想が放縦できる空間を手にしている。
 五時四十七分。私は最後に見た時間の名を彼らに与えた。彼らが生活と幻想を交換したように、私も時間と陽光
とを交換する。
 ぼたり、ぼと。
 鈍く響く錠を下ろして私は部屋を出る。地上に出た蝉の寿命は二週間である。