春を食うひと。



 前世は海月でしたと櫻男は言った。
「くらげ、だったんです。八月の暑い日に海岸に打ち上げられて干からびて死にました」
 そう。私は折り紙に夢中の振りをして、目を合わせずに呟く。はい、と神妙に答えた櫻男は、そっと私に手を
添えて、折り目を綺麗に修正する。伏せた睫が意外と長くて、私は少し腹が立った。


      ☆
 櫻男の本名は田中一夫と言う。平凡なようでいて同姓同名にはぶつからない、平凡にもなりきれなかった
特徴のない名前だ。多分三十代の後半で、くたびれた背広が似合い、いつも困ったような顔をしている。桜が
持つ華やかなイメージなんてどこにもない。
 しかし彼は櫻男であるらしい。数ヶ月前に引っ越してきたとき、「引越しそばをご馳走するために」集めた近所
の人達に向かって、彼は宣言した。
「皆さん始めまして。私は櫻男です、春までお世話になります。よろしくお願い致します」
 皆ぽかんとして櫻男を見ていた。外見が至極まっとうな分だけ、彼の奇妙な宣言は浮き上がって聞こえた。
どうせ受け狙いだわね、と私は思ったような気がするけれど、櫻男の真剣そうな眼差しを見ているうちに何だか
可笑しくなって、くすりと笑った。
「どうなさいました? 何かご不審な点でも?」
 櫻男がこちらを見つめた頃には、もう皆笑っていたと思う。
「ええ、どうして春までなのかなと思って」
「それは勿論、」  彼は得意げに言った、
「春には桜が咲くからです。私はそれまでここで、桜の開花を子供達に知らせる準備をするのですよ」
「そして春には旅立つの? 桜前線みたいに?」
「そうそう、その通りです。もっとも、私の名前の櫻という漢字は、桜の木の桜ではないのですけれどもね。つくり
の部分が”ツ”の字に女ではなくて、貝二つに女になります。旧漢字の櫻、でお分かりでしょうか。その字です」
「なるほど」
 こうして櫻男はご近所の一員となった。あれだけ突飛な自己紹介をしたくせに、彼は「田中さん」と呼ばれても
きちんと返事をした。そういう生真面目さが奇妙な自己紹介を相殺して、彼は「冗談好きのユニークな田中さん」と
して定着する。私も大体そう思っていた。櫻男が私に声を掛けてくるまでは。


     ☆
「……ねえ、櫻男」
 紙を折る手を止めずに話し掛ける。
「何ですか?」
 櫻男は礼儀正しく手を止めて答える。
「どうして私に手伝いを頼んだの? 私って不器用だし、折り紙なんて好きじゃないもの。他の人に頼めばもっと
早く作業が進むのに」
「そんなことは問題ではないのですよ。今私たちが作っているこの桜の花、これをただの紙の花だと思われる方
では、どんなにたくさん折って頂いても意味がないのです。大切なのは真心です」
「まごころねえ……」
 真剣に言っているのだから始末に負えない。櫻男が初めて私に声を掛け、折り紙で桜を作るのを手伝ってくれな
いかと頼んだときも、彼はこんな顔をしていた。真面目すぎて滑稽であるという現象を、身をもって表現している男。
好奇心から手伝い始めた私だったけれど、彼には探るほどの裏表がなく、苛立ちを誘う一途さしか伝わってこない
から、たまに後悔してしまう。
「ねえ、それで」
 少し意地悪をしたくなって尋ねた。
「この紙の桜で、どうやって春の訪れを知らせる訳なの? 花さかじいさんみたいに撒き散らすの? 大体、あなたは
どうして櫻男になったのよ? 本名は田中一夫、前世はくらげ、今は櫻男。真面目な顔してる割に一貫性が感じられ
ないんだけど」
 一息に言い終えて正面を見る。きっと困った顔で首を傾げているに違いない、と思った彼は、何故かとても深刻な顔
をしていた。
「それは難しい質問です」
 櫻男は小さな声で呟く。こちらを見ない。
「とても難しい……、私にも良く判らないのですよ。ただ今はそうすべきだと感じるだけです。心を込めて準備して待つ
べきだ。そういうふうに。時が来れば判る、と信じてはいるのですが」
 一度息を継ぐ。低い声、は初めて聞くものかもしれない、と私は目を伏せながら思った。
「何しろ私は新米の櫻男なものですから。今年が初めての体験なのです。もっと経験をつめば戸惑うこともなくなるので
しょうが、修行不足ですね」
 そして私を見てにっこりと笑った。
「ああ、でも、私の前世についてならお答えできますよ。今でこそ人間として暮らしていますが、私は昔海月だった。それ
はさっきお話したと思いますが」
「聞いたけど」
 一瞬感じた罪悪感も忘れて、私はうんざりと返事した。
「また御伽噺?」
「そうですね」
 櫻男は動じない。意外に神経が太いのは前から判っていたことだ。
「御伽噺と言っても差し支えないかと思います。海月だった頃、私は自分の薄っぺらさが嫌で堪らなかったのです。
向こうが透けて見えるような存在感のなさ、とでも言いましょうか」
 見た目通りですが、と小さく笑う。
「人様の役に立つような事もしませんでしたしね。毒にも薬にもならない生涯でしたので、生まれ変わるときに神様に
お願いしたのですよ。今度はもう少し生きた証の残る物に、誰かを喜ばせる事が出来るような物になりたいと」
「そして櫻男になったの?」
「はい。少なくとも子供たちのためには働けますから、満足していますよ。半透明の海月から、華やかな桜に大出世です。
身に余る光栄というもので」
「華やかなのは桜で、櫻男じゃないわ」
「そうですね」
 その時の素直さは、写真のように今でも覚えている。


     ☆
 春になった。
 私がベッドで目を覚まし、手を伸ばしてカーテンの向こうに青い空を確かめた朝、櫻男はいない人になっていた。出て
行ったのだ。もともと物の少なかった彼の家は綺麗に空っぽになっていて、備え付けの家具しか残されていなかった。
折り紙の桜も勿論ない。
 ふうん、と私は言った。
 どうしたのかしらねえ、と近所のおばさん達が噂した。
 そしてそれきりだった。私は良く知らなかったのだけれど、櫻男はかなりの財産を持っていたのだという。それは数百万
とか一千万とかの小金ではなくて、つまり家を十軒くらい建ててお手伝いさんを二人ずつ置いて一生暮らしていけるくらい
の莫大なお金のことだ。子供会にした寄付の額は桁が二つくらい違った。いつも来ていた背広だって、数は少ないものの、
きわめて上等な趣味の良い品物だった。だから彼が突然いなくなったところで夜逃げなんかでは有り得ないし、多分貸家
住まいに飽きてどこか別の豪邸に戻ったというだけのことだと、おばさん達は結論したのだった。
 一週間ほど経ち、桜が開花する頃には、「櫻男」と名乗った奇妙な男のことは、ほとんど話題に上らなくなっていた。噂の
種にしては空想的過ぎたのだろう。
 薄桃の花びらは、折り紙で作ったそれよりも淡く強い。無色に見せ掛けて向こうを透かさない、そんな、
 ――透明、と私は思う。前世は海月でした。
「なるほどね」
 あの日の彼と同じように、私は小さく笑った。
 家へ向かう坂道のふもとで、桜のそよぐ音が聞こえた。