063.でんせん




 やめときなよ、ともう一度言うと、彼は困ったようにほほえんだ。
「……ちゃんの言う通りだと思うんだけどね」
 選びようのない事なんだ、と彼は言葉を選びながら言う。私はもうこの人には届いていない。
表面を優しく滑り落ちるだけで、中には踏み込めない。空気の色から振動から、私はそれを理
解する。
 傍らに置いたバッグの中で電話が鳴り、無視し続けていると、やがて止んだ。受けても受けな
くても変わりないのだ。私に連絡する手段はいくらでもある。
 「一人が好きなの?」
 自分の言葉が酷く汚れていると思う。訊ねてどうしようと言うのだろう。彼の言う通り、選びようの
ないことなのだ。選んだことが叶うのなら、どこにも行く必要なんてない。
 

 顔を俯けていると、隣で彼が寝転ぶ気配がした。かさり、とわざと音を立てて、彼は大きく息をする。
「ここは僕には苦しい」 彼は静かに言う。 「網が多すぎる。言葉が多すぎる。何もかもが伝わりすぎる」
「どこに行ったって同じよ」 
「うん、その通りだ」
 ここまで言葉どおりなのも珍しいね、と笑う鷹揚さには、確かにここは似合わない。


 私も彼を真似て寝転ぶ。仰向けになった眼に空が映る。びっしりと張り巡らされた電線がそれを分断し、
我が物顔で寛いでいる。発達しすぎた情報網、この表現がこれほど似合う世界がかつてあったろうか。
 「寂しくなるわ」
 試しに呟いた言葉が宙に浮かぶ。比喩ではない、本当に浮かぶのだ。私がイメージしたとおりの掠れた
青色になって、頼りなく振動しながら彼のもとへ縋り寄っていく。電子回路は溜息さえ見逃さない。
 「でも仕方ないものね」 
  なるべく何もイメージしないように気をつけながら言った。こんなに伝わりすぎちゃね、と。
 「どこへ行っても同じだけれど」
  彼は言った。私は目を閉じてそれを聞く。音でしか言葉が伝わらなかった頃を想像する。
 「どこへ行っても同じだけ、多すぎる網が僕の声を掬い取るんだ。そう思うと寂しくないだろう?」
 「……人の思いを小魚みたいに」
  それに安っぽいメロドラマみたいだ、と思ったけれど言わなかった。
  目を開けて私の現実を眺める。増えすぎた電線が切り取る空を見上げながら、空は破れないのだなあ、と考えた。




                                                                      



 064:洗濯物日和




 「わたし、スーツ姿の尚志さんを愛してたの」
 「そうね」
 きっぱりと口を結んだ友人に向かって、私は軽く頷いた。佳奈は既に紅茶を飲み終え、使用済みのカップを
流しへ運んでいる。そのままベランダに行くだろう、と思っていたら、やはりそうなった。
「スーツだってその人の一部だもの。立派な愛の形じゃない」
 ベランダで佳奈の声が反響している。彼女の声は落ち着いていて、愛の形、なんて恥ずかしい言葉も、今日の
運勢、とか数学の課題、と同じくらい易々と発音してしまう。佳奈の愛してる、を、尚志氏は「こんにちは」くらいに
聞いたのかもしれない。そんな愛情にはスーツだけで充分だと思ったのかもしれない。中身を与えるには値しな
いと。
 青臭いことを考えてしまった。佳奈は淡々としている。淡々としながら取り込んできた開襟シャツにアイロンをかけ、
美しく折り目をつけて畳んだ。
「スーツはまだクリーニング中なの」
「そう」
「あれはどうやってしまおうかしら。畳んで置いておくものじゃないわよね」
「そうねえ」
 既に冷えてしまった紅茶をだらだらと啜る。本当は冷える前に飲んでしまいたかったのだが、佳奈の行う儀式
めいた手順に参加するわけにもいかないし、紅茶でも飲んでいないと間が持たないのだ。
 佳奈は着々と作業を進めていた。よっこいしょ、という掛け声とともに押入れの奥から小ぶりの衣装箱を取り出し、
重そうな顔をして蓋を開けた。
 通信販売で見かけるような透明の衣装箱の中には、男物の服ばかりが詰められている。トレーナーの似合う
穏やかな誠氏、Tシャツ姿が爽やかだった健太郎氏、ジーンズのラインが美しい俊哉氏。
 佳奈が愛した服達だ。たいていは短期間のうちに持ち主のもとを去り、彼女の衣装箱に収まった。記念にちょう
だい、という彼女の申し出は、なぜか断られたためしがなく、うつくしいくせに何を着てもちぐはぐな佳奈は、時折そ
れらを広げて眺めてみる、らしい。
「このケースがいっぱいになったらね」
 まだ半分くらいじゃない、と言ってみたが、案の定聞いてもらえなかった。整理に集中している。
「このケースがいっぱいになったら、丸ごとアフリカに寄付しちゃうの。ほとんど新品だもの、喜ばれると思わない?」
「そうねえ」
 衣装箱に入れられたシャツは、全ての折り目が丁寧に整えられていて、皺など一本も入る余地がないくらいに端正だ。
こんな堅苦しい服が南方で好まれるものか――と思ったが、人というのは色々であるから、分からないということにした。
それにしてもアフリカか。とりあえずカップを片付けて、商店街の安売りに誘おう。