092.マヨヒガ


  *マヨヒガ:迷い家。山中にある不思議な家。辿り着く人に物を与えるために姿を現す。  (柳田国男『遠野物語』)



 少年は木桶を手に野道を歩いている。表情はどこか硬く、身構えるような顔つきで視線を左右に彷徨わせている。
 前方から少女が歩いてくる。少年は彼女を見て立ち止まる。
「あの」
 少年の発した声で少女も立ち止まる。少年を求めるように右手を差し出す。彼女は目が見えない。
 少年は駆け寄って遠慮がちに少女に触れる。彼女は少年の手を取りにっこりと微笑む。少年は咄嗟に表情を隠そうと
し、その必要のないことに気づく。
「花を持ってきたわ」
「うん」
 彼女の左手には花の入った籠が提げられている。少年は自分の持っていた木桶とそれを交換する。少女が花の名と
香りを教え、少年が木桶に泳ぐ魚の名を教え、互いが互いを復唱する。
 一連の動作を済ませてしまうと、少年には話すことがない。
「それじゃ」
 少年は仕方なく挨拶してその場を離れかける。少女が唇が僅かに開き、すぐ閉じる。町で待つ弟妹のことを、彼も彼女も
忘れてはいない。
「魚をありがとう」
「花をもらったから」
 この辺には町のような綺麗な花はないんだ、と少年は付け足す。どれも蕾が小さくて、匂いも町のものほど良くはない、と。
「明日も来るわね」
「帰り道、気をつけて」
 少女は最後の微笑を残して山道を下っていく。少年は暫く彼女を見送る。明日も彼女に会えるだろうか、と小屋に戻りなが
ら少年は思う。陽射しは強いが、彼の足元には影がない。風が吹いた後には少年も花籠もなく、ただ打ち棄てられた山小屋
だけが残っている。